コンテンツにスキップするフッターにスキップする

ホリデーシーズンの発送締め切り日はこちらです。

ホリデーシーズンの発送締め切り日はこちらです。

倉俣史朗のフォルムと素材における

デザインのコンティニュアム

日本を代表するデザイナーの一人として、家具、プロダクト、インテリア、リテールデザインなど 様々な分野で活躍し、デザインの可能性を大きく広げた倉俣史朗。多様な素材や製造方法を使 用する実験的なアプローチを通して、形や感触も互いに対照的でありながら、一目で20世紀のア イコンとして認知される倉俣の作品。それぞれの素材の持つ反射性・透明性・半透明性・不透明 性・触覚といった特性への深い理解と、その本質的な資質に寄り添う彼の姿勢は、時代を象徴す る情感豊かな作品を生み出し、現在でも世界のコレクターズたちから絶賛されている。

共有する

g

Shiro Kuramata, Glass Chair, 1976 | Courtesy of Friedman Benda and Shiro Kuramata

色鮮やかで流行に左右されない、表情豊かで遊び心の効いたデザインが倉俣作品の特徴だ。その過激で大胆なアプローチで、180点以上の家具、300店舗以上のバーやレストランのインテリア、そして数多くのリテールショップのデザインを手掛けた。なかでも、イッセイミヤケのショップデザインは100店舗を超え、そのうちの2店舗は青山で今も現役だ。倉俣のデザイン手法は、日本の伝統的な美学と西洋のポストモダニズムおよびデザイン理論を融合させる。自身の語ったそのアプローチはこうだ: 「私の発想法としてふたつある。その一つは、ゼロからの発想であり、そのものに纏わりついている諸々のものを取り除き、ゼロから見直すことである。もう一つは逆に何故?という単純な疑問からとらえること。」「アクリル樹脂、ガラス、スチールメッシュ、アルミニウム、大理石、テラゾ(人造大理石)などの素材を用いてフォルムの可能性を探求する先鋭的なアプローチは、日常的な素材の限界を超え、それをより特別なものへと変化させた。「ガラス、プラスチック、アルミニウムなどの人工的な素材に関心があるのは、時間の経過を感じさせない、錆びない、汚れない、そんな素材だから。」

x
x

Shiro Kuramata, Miss Blanche, 1988 | Courtesy of Friedman Benda and Shiro Kuramata

Photo Jon Lam

倉俣史朗は1934年に東京に生まれ、第二次世界大戦中そしてそれに続くアメリカ占領下の日本で育った。1953年に東京工芸大学建築学科を卒業し、地元の家具会社、帝国器材に入社した後、桑沢デザイン研究所に入所。桑沢デザイン研究所では、ドイツ語の『ゲシュタルトゥング』という言葉に由来する、形の原理を学ぶ「構成」の教えに基づくコンセプトに沿って、特定の方向性やスタイルに従うより、自分で考えることが奨励されていたという。1957年、22歳で東京の百貨店、三愛に入社。当時を振り返って倉俣は、「フリーランスかどうかにかかわらず、すべては個人の姿勢にかかっていると思う。当時、私が担当していたのは小さなウィンドウディスプレイでしたが、どんなに小さくてもその中で自分を表現することができると思っていました。それは今でも変わりません。人生と仕事を切り離すのではなく、同じ線上にあれば、たとえそれが小さなことであっても、難しいことではなく、楽しいことになると信じています。」と語っている。その後、倉俣は競合である銀座の有名デパート松屋に移り2年間勤め、1965年にクラマタデザイン事務所を設立、1991年に56歳の若さで亡くなるまで活動を続けた。

c
d

この分野を超えた型破りな経歴が多分野にまたがる彼のアプローチを生み出し、絶え間なく作品を発表し続ける源泉となったことは間違いないだろう。彼が手掛けた数多くのインテリアで現存するものは少ないが、時代を遥かに超越していたそのオリジナリティは今も息づいている。倉俣は、物質的な実験を重ねることで、意識的な空間デザインがもたらす感情への影響をを理解し、「私の作品を見て、使っている素材で判断されがちですが、素材を見てデザインを考えることはほとんどないのです。『木でできているから暖かい、金属だから冷たい』という概念ではなく、木でも冷たいときがあり、金属から暖かみを感じるときもあるという可能性を考慮して素材を扱っています。このパラドックスを通して、特に商業空間では、人が自分自身を見つめ直すことができるのです。」と述べていた。EDWARD’S、エスプリ、イッセイミヤケなどのファッションブランドのインテリアについては、そのビジュアルコンセプトの延長線上となるオリジナルの家具もデザインした。ファッションに携わるものだけでなく、倉俣が内装を手掛けた福岡のホテルIIパラッツォのバー、「OBLOMOV」(1989)も同様に、そのデザインのコンティニュアムの線上にあった。また、DOMUS元編集長のデヤン・スディックは、「バーやナイトクラブを装飾しただけではなく、倉俣はその作品を通してクリエイティブな東京を開花させた。ショップをスタイリングし、快適さを優先しない家具を生み出した。彼はその文化に積極的に加担しただけでなく、他のアーティストたちとコラボレーションし、シネマやジャズに熱狂し、政治的な活動に加わり、詩的でエレガントな言葉でそのすべてを書き留めた。デザイナーにしては、自分の記憶やモチベーションについて非常に雄弁に語る人だった。」と述べている。

f
d

Shiro Kuramata, Cabinet de Curiosite, 1989 | Courtesy of Friedman Benda and Shiro Kuramata

Photo Daniel Kukla

倉俣のデザインに対する多彩なアプローチは、建築家の磯崎新、具体美術協会、さらにはビジュアル、そしてインテレクトのインスピレーションだったマルセル・デュシャンの作品などから多くの影響を受けた。建築家でもあった倉俣は、形より空間に興味を持ち、都会のノイズの中でもその些細なひらめきで、驚きと変化に満ちた空間を作り出した。「私の作品に影響を与えた主な西洋のものはバウハウスや、それに続いたモダニズムの機能的デザインでした。デザインを始めたきっかけは、このイデオロギーに自分の姿が反映されていると感じることができたからです。一方、究極的に自由なイタリアのデザインには常に魅了されていました。」と語った倉俣は、エットレ・ソットサスの遊び心と鮮やかな色への情熱に触発され、1981年にメンフィス・グループに参加。エットレ・ソットサスは倉俣について、「彼にとって、物、家具、インスタレーションは、その物理的な境界線の中では決して終わらなかったのです。彼にとって、オブジェや家具、インスタレーションの周りには、決して静寂や抽象的な塵があるわけではなく、常に周囲の空気が中央の挑発に揺さぶられているかのように振動しています。だからこそ、(史朗は)オブジェや家具、インスタレーションそのものだけでなく、その周りに発生する様々な不思議な振動を表現しようとすることが多かったのです。」と説明した。

x

Shiro Kuramata, Cabinet de Curiosite, 1989 | Courtesy of Friedman Benda and Shiro Kuramata | Photo Daniel Kukla

倉俣は常に工業用素材を探求し、制作における限界を押し広げていた。倉俣の「ミス・ブランチ」(1988)、アクリルレジンとアルミニウムの脚部でできた椅子に造花の薔薇を宙に『浮かべた』デザイン。テネシー・ウィリアムズの芝居「欲望という名の電車」に登場する人物ブランチ・デュボワにちなんだタイトルは、永遠の美しさという概念を詩的に反映したものであり、保管された美しさに憧れる虚弱な主人公の気持ちを表しているという。また、1986年にデザインされたアームチェア「How High The Moon」は、椅子という概念に対する哲学的な考察を目的としており、金属職人がエキスパンドメタルを使用して丹念に手掛けた作品である。更に、倉俣の家具デザインの中でも最も影響力のある作品の一つの、それまでになかった透明感と無重力感を表現した「ガラスの椅子」(1976)は、ガラスの要素を削ぎ落として使用するという先例を作った。ガラスの平面を革新的な新たな接着剤でつなぎ合わせた構造は、ネジやクギを一切使わず、繋ぎ目の痕跡もなく、当時としては全く画期的なものであった。倉俣は、スタンリー・キューブリック監督の1968年の映画『2001年宇宙の旅』を観て、平凡でアンプログレッシヴなセットデザインに失望したことが、このコンセプトのきっかけになったと語った。この映画を観て、倉俣は自分であればどのようにデザインをしていたかと考えた。そして当時19歳で家業のガラス屋を継いでいた三保谷友彦は倉俣のプロジェクトに専念することを決め、作品において最大の協力者となり、共に制作を進めた。「ただのガラス板が面から立体になるとは思いもしなかったので、衝撃的でした。その瞬間に倉俣史朗というデザイナーに人生を賭けようと思いました。」と三保谷は述べた。純粋なマテリアリズムとミニマリズムを表現するガラス細工はその後、本棚の「ガラスの棚」(1976)や「ガラスのテーブル」(1976)として再現され、更に「エキスパンドメタルレグ」(1985)には金属などの第二の素材を加えることにもつながった。倉俣は「ガラスには香りも味もなく、官能的でありながらモダンである」と述べていた。

d

Shiro Kuramata, Feather Stool, 1990 | Courtesy of Friedman Benda and Shiro Kuramata

d

時を経ても変わらない美しさを持つ倉俣の作品だが、本人にとってデザインしていた当時は、それは一瞬で消えてしまう一時的な存在だという考えに意識が強く向けられていた。もし存命であったら自身の作品が未だに現代のデザインに影響を与え続けていることに驚いたことだろう。「自分の仕事を振り返ると、光を影に置き換えようとしていたように思う。しかし、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に書かれているような心境になるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。」と語ったことのあった倉俣史朗は、家具、インテリア、店舗デザインなど、他に類を見ない幅広さと深さを発揮し、今でも間違いなく時代を先取りした、日本を代表するデザイナーの一人である。

c

Shiro Kuramata, How High The Moon, 1986 | Courtesy of Friedman Benda and Shiro Kuramata | Photo Daniel Kukla

Text: Joanna Kawecki

Images: ©Courtesy of Friedman Benda

Translated by: Aoi Sasaki

RECOMMENDED PRODUCTS: