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バーバラ・ヘップワース:モダニストが見た自然の形


バーバラ・ヘップワースは、芸術分野で女性が様々な困難と向き合っていた中、ジェンダーの枠を超えて高く評価され、かつて「私の左手は私の思考の手であり、右手は単なるモーターです。」と名言を残した英国の彫刻家。20世紀の芸術の中心人物である彼女の基礎的な思考を振り返る言葉はツールと起源をはっきりと分けていることを反映しています。

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Barbara Hepworth, Winged Figure, 1961–2 © Bowness, Hepworth Estate

Photo: Jonty Wilde | Photo Jonty Wilde


 

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Hepworth working on the armature of Single Form in the Palais de Danse, St Ives, 1961 © Bowness | Photo: Rosemary Mathews

ヘップワースは多作の芸術家であり、1925年から1975年の間に600を超える作品を制作しました。中でも最も広く知られた作品「ピアスフォーム(1932)」は、彫刻に空洞を開けることによって、作品と環境の交流を促進し、更に視聴者には作品と環境の両方を同時に吸収してもらうことを目的とした、当時には滅多に見ないモチーフでした。
いつも通りに睡眠前の一服にから起きた住宅火事によって、大量の作品を残し、72歳で亡くなったヘップワース。芸術を民主化するための著名な支持者でもあった彼女の多くの作品は公共の場に置かれ今でも多くの観客を呼び寄せています。ロンドンの賑やかなオックスフォードストリートのジョンルイスデパートの横にはヘップワースの最も有名な作品の一つの「翼のある人物(1963年)」、ニューヨークでは「シングルフォーム(1964)」が国連プラザへの訪問者を迎えています。高さ6.5メートルほどのこの作品は、ヘップワースの最大の作品であり、彼女の友人であり国連事務総長のダグ・ハマーショルドの記念碑として依頼された作品です。 

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Barbara Hepworth, Mother and Child, 1934. Pink Ancaster stone Purchased by Wakefield

Corporation in 1951 © Bowness, Hepworth Estate | Photo: Jerry Hardman-Jones


 

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1903年にヨークシャーのウェイクフィールドに生まれ、地元では彼女のキャリアを称える二つの美術館の内の一つ(2011年に開設したザ・ヘップワース・ウェイクフィールド/1980年からテートによって運営されているセントアイブスのバーバラ・ヘップワース美術館と彫刻庭園)が誇られています。ヘップワースは1920年にリーズ芸術学校への奨学金を取得し、1921年から王立美術大学へ進学しました。そして1924年に卒業すると、彼女はフィレンツェに渡り、ジョバンニ・アルディーニの下で大理石を彫ることを学びました。イタリアにいる間、彼女は彫刻家の仲間であり、ローマ賞を受賞したジョン・スキーピングと結婚しました(ヘップワースは2位を受賞)。彼らは5年後に子供をもうけた後、ヘップワースが別の芸術家、ベン・ニコルソンと関わりを持つようになったため、1931年に離婚。その後二人は1934年に三つ子を授かり、1938年に結婚しました。
第二次世界大戦の勃発でロンドンからセントアイブスに移り、ヘップワースとニコルソンはセントアイブス学校の一員となり、後にコーニッシュ海岸に圧倒された芸術家の移民団を率いました。ヘップワースはこの時期に自分の幼い頃に楽しんだ自然の要素を再訪し、以来作品に新たな魅力が現れました。1949年に夫婦でトゥルーウィンスタジオ(Trewyn Studios)に引越し、1975年にヘップワースが亡くなるまで住み、テートの彫刻庭園が残る場所となりました(夫ニコルソンとは1951年に離婚)。1953年にダドリー・ショー・アシュトンによって撮影されたショートフィルム「Figures in a Landscape」は、ヘップワースがコーニッシュの風景の中で作業に夢中になっているところを美しく収め、背景と作品をロマンチックに映しています。作品がいつか地形の一部になってのちに相互作用する形になるという彼女の願望に一貫して、1972年にヘップワースはインタビュアーに次のように語った。「私はすべての彫刻は手で触れられるべきであると思います。それは触れるという私たち人間のまず最初の感性である感覚です。私たちが生まれたとき最初に体験するものです。」
 

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Barbara Hepworth, Totem, 1960 - 62 Wakefield Permanent Art Collection ©

Bowness, Hepworth Estate Photo: Jerry Hardman-Jones


 

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Left: Barbara Hepworth, Cone and Sphere, 1973. White marble. Hepworth Estate, on long loan to

The Hepworth Wakefield (Wakefield Permanent Art Collection) © Bowness | Photo Mark Heathcote

Right: Barbara Hepworth at work on the plaster for Single Form, January 1962, at the Morris Singer

foundry. © Bowness, Hepworth Estate | Photo: Morgan-Wells

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自然への親和性を超えて、ヘップワースは政治にも深く関わっていました。ロンドンにいる間、彼女はヨーロッパのますますファシストなレトリックから逃げる現地の芸術家と交流を深めました。他の場所では、社会における芸術の役割を支持することは現代世界にとって不可欠であるという考えでした。1952年、彼女は芸術について、「国々が一緒に話すことができる唯一の共通言語であり、喧嘩が起きない話題です。しかし多くのストレスと戦争の時代には、ビジュアルアートを維持するためのわずかな助成金が真っ先に取り消されます。」と述べました。その後1956年に、彼女は59人の芸術家によって署名された、水素爆弾に対する彼女らの不満を明らかにした手紙をサンデータイムズへ送りました。
ヘップワースの名前は、そのように広く受け入れられるエグゼクティブミソジニーの時代に有名になりました。彼女は1950年にヴェネツィアビエンナーレで英国を代表し、1959年にサンパウロビエンナーレで優勝し、1965年にデイムになりました。彼女は自分自身でフェミニズムを推すことより基本的な平等を気にかけ、芸術とは匿名であると宣言し、「決して男性や男性的な考えと対立したくない」と述べました。しかし、4人の子供の母親として、彼女は知覚された不均衡についてさらに懸念を抱えていて「女性芸術家は、家事をしたり子供を産んだり、子供のはしかを看病することによって奪われることはありません。むしろこの豊かな生活によって、毎日たった30分でも何らかの仕事をしているという条件で、よりイメージが頭の中で成長するようになり、豊富になります。」と語ったこともありました。

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Barbara Hepworth with the Gift plaster of Figure for Landscape and a bronze cast of Figure (Archaean)

November 1964. © Bowness | Photo: Lucien Meyer


 

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Barbara Hepworth, Genesis III, 1966 © Bowness, Hepworth Estate | Photo: Jerry Hardman-Jones


 

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Barbara Hepworth, Kneeling Figure, 1932 Rosewood. Purchased with aid from the Wakefield Permanent Art Fund (Friends of Wakefield Art Galleries and Museums),

V&A Purchase Grant Fund and Wakefield Girls’ High School, 1944 © Bowness, Hepworth Estate Photo: Jerry Hardman-Jones


 

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Barbara Hepworth, Pierced Hemisphere, 1937. White marble. The Hepworth Wakefield (Wakefield Permanent Art Collection) © Bowness | Photo Norman Taylor

Text: Zoe Whitfield

Translated by: Aoi Sasaki

Images: ©️ Courtesy The Hepworth Wakefield

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