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不可思議かつイリュージョナルな

アレハンドロ・ホドロフスキーの映画入門

史上最もラディカルで、まるで向精神薬かの様なチリ人映像作家の世界を深掘りしてみよう。彼のシュールかつ反体制的な大作の数々は心霊主義と象徴学、暴力と欲望、ユーモアとホラーで溢れているーそして、見る者の度肝を抜くこと間違いなしだ。

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Image from Alejandro Jodorowsky’s The Holy Mountain © ABKCO Films

カルト的人気を誇るチリ人映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーの作品を見る事は、バックパッカーが異世界に到着するのと同義である: 目まぐるしく、見るものを陶酔させるような世界はどこか身近であると同時に新鮮で、人間の領域の全てが知恵や美徳、精神性から欲望、強欲そして暴力までに起因するという考えが、ありとあらゆる場面で増幅され誇示されているのだ。ホドロフスキーと彼の異常かつ度々物議を醸す作品を理解するには、彼の経歴を知る事が不可欠だ。何故なら一見常識を超越し、奇妙に思える彼の映画の全ては、作家にとって極端なまでにパーソナルであるからだ。
ホドロフスキーはチリの北に位置する小さな銅山がある事で有名なトコピアという町で育った。彼は不幸な幼少期を過ごし、パフォーマンス、演技そしてサーカスのピエロとして働く事に救いを求め、20代前半には自身の劇場を開業した。23歳になる頃にはパリへと移住し、マルセル・マルソーのパントマイム劇団の作家となり、度々血が流れる程の破壊的な騒動を率先して起こしていた「パニック芸術運動」というパフォーマンスアート集団を共同で立ち上げた。1960年にホドロフスキーはメキシコに移住し10年程そこで過ごし、100以上のアヴァンギャルド劇を監督し、コミック・ストリップを執筆し、禅宗の僧侶の元で学んだ。「メキシコの精神は過剰です」と中央アメリカに位置する同国について、自身の初期の感想を、パープルマガジンのインタビュー内でドナシアン・グラウに話している。「植物相、動物相、食、社会関係、ファッション、歌、音楽 ― どれにおいても、何一つとして限界というものがありませんでした。」

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Image from Alejandro Jodorowsky’s El Topo © ABKCO Films

ホドロフスキーが「ファンドとリス」(1968年作)を制作したのは正にこの制限の無い環境下においてであった。不条理主義者の劇作家フェルナンド・アラバール作の劇を大まかに基にしているが、この作品はアカプルコ映画祭で上映された際に暴動を誘発し、以降全国的に上映禁止となったのだった。しかし、ホドロフスキーは第二作品目のアシッド・ウエスタン映画「エル・トポ」(1970年作)をリリース(この時に初めて本当の意味でブレイクしたといえよう。)ホドロフスキーが台本を書き、監督し、曲を共作し、出演までした「エル・トポ」は彼自身の特異な作風を明確に表現している: まるで、東洋の神秘主義、ラテンアメリカの民間伝承そしてヨーロッパのシュルレアリストの巨匠ブニュエルやフェリーニらの手法をミックスしたようであったのだ。ホドロフスキーのほとんどの映画がそうであるように、「エル・トポ」は使命を背負った男を中心にストーリーが展開する: ホドロフスキー演じる銃を携帯した無法者が愛した女性の心を掴むべく、砂漠の四天王を殺す為の旅に出るのだ。 グロテスクでけばけばしく、馬鹿げていながらも、人の心を掴んで離さない映像や象徴性を用いて「エル・トポ」は「深夜映画」のテンプレートそのものとなった。ニューヨークのエルジン劇場にて深夜0時の上映枠を6ヶ月連続で保持し続けたのがその証拠だ。

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3年後100万ドルの資金支援をABKCOとアレン・クライン(ホドロフスキーファンであるジョン・レノンとヨーコ・オノの後押しを受けて)より受けてホドロフスキーは「ホーリー・マウンテン」(1973年作)でカムバックする。Mubiでは「扇情的でシュルレアリスト、不謹慎な風刺にタロットの形象と錬金術の神秘主義、そして反体制的な奇妙さが入り混じっている」と実に適切に評されている。映画内で狂った錬金術師(ホドロフスキー)は道徳的にいかがわしい者たちを率いて、山頂に住んでいる9人の不死身の神達を打倒するため旅立つ。 消費主義者、戦争に飢えた西洋の文化、宗教に対するやみくもな崇拝の本質、そして映画そのものに対しての過大評価さえも面白おかしくイジった「ホーリー・マウンテン」は映画史上、最も目を引くシーンのいくつかから成る、さしずめ映画で見る灼熱の夢のようだ。

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Image from Alejandro Jodorowsky’s The Holy Mountain © ABKCO Films

全てが順調に進んでいたホドロフスキーは、完成されることのなかった映画としては、ほぼ間違い無く、最も象徴的とされる作品に着手した。フランク・ハーバートのサイファイの傑作「デューン」の壮大な脚色だ。この作品で彼は素晴らしいチームを率いることになった: メビウスとハンス・リューディ・ギーガが3000コマからなる絵コンテを担当、ダン・オバノンが視覚効果をプロデュース、ピンク・フロイドがサウンドトラックを担当し、サルバドール・ダリ、ミック・ジャガー、そしてオーソン・ウェルズが出演した。悲劇的にも同作はハリウッドの後ろ盾を得ることが出来なかったが ― フランク・パヴィッチによる2013年作のドキュメンタリー「ホドロフスキーのDUNE」でも描写されているように ― その絵コンテはSF映画の未来を形作るのに大きく貢献した。
ひどくプライドを傷つけられたホドロフスキーは映画制作を休止し、代わりにメビウスとグラフィック・ノベルを制作するようになる。(タイカ・ワイティティによる映画化をまもなく控える「アンカル」を含む)そして、サイコマジックという新型のタロットとパフォーマンスアートを基調とした”治療法”をも確立したのだ。ホドロフスキーは1989年にエディプス的ホラー「サンタ・サングレ/聖なる血」で映画界に復帰する。(その間にリリースした2作品はボツにしてしまった。) 明快な時系列で描かれつつも、間違いなくホドロフスキー色が全面に押し出された同作は幼少期のトラウマに悩まされた元サーカスのパフォーマーが、大人になってから母親と再会し、ぞっとするような結末を迎える、という物語だ。

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Image from Alejandro Jodorowsky’s The Holy Mountain © ABKCO Films

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Image from Alejandro Jodorowsky’s The Holy Mountain © ABKCO Films

それでも、この映画はホドロフスキー史上最も感情的な、そして心理的な表現に富んだ作品となった。そして、同作品があったからこそ後のホドロフスキーの自叙伝作品とも言える「リアリティのダンス」(2013年作)と「エンドレス・ポエトリー」(2016作)が完成したと言っても過言ではない。この間ホドロフスキーは22年程映画制作からは遠ざかっており、本や詩の執筆に始まり劇場やタロットの活動に勤しんでいた。2019年に彼はサイコマジックの治癒力について詳細を描写した「ホドロフスキーのサイコマジック」というドキュメンタリーをリリースした。現在92歳でパリ在住のホドロフスキーは、自身が追い求めた芸術活動の全てにおいてそれらがどんな形であったにしても、一つの包括的な目標を掲げて来た。「私は自分の作品で視聴者の脳を本来のあるべき姿に戻したいんだ: 魔法の絨毯さ」彼は英国映画協会のインタビューでアントン・ビテルに言った。そして彼が自身の冒険において、その目標を既に達成している事に疑いの余地はない。

Text: Daisy Woodward

Images: Courtesy © ABKCO Films a division

of ABKCO Music & Records, Inc.

Translated by: Sho Mitsui

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