140個の白い箱を整然と積み重ねた印象的の集合住宅は、13階建てのA棟と11階建てのB棟のツインタワーで構成されている。最大の特徴は、完全に独立した構造体のカプセルが、最大荷重2トンのコンクリートコアシャフトに4本の高張力ボルトのみで取り付けられており、必要に応じて追加や移動が可能できることだ。高度経済成長の波に乗って急成長を続けていた1970年代の東京は、全国からさまざまな人が仕事のために訪れる場所であり、中銀カプセルタワーも当初は比較的余裕のあるビジネスマンの多目的なセカンドハウスとして売り出されたものだった。設計を担当した建築家、黒川紀章は、社会の変化に合わせて有機的に成長する都市や建築のあり方を提唱した建築運動「メタボリズム」の騎手であり、その理念を実現する目的からこのチャレンジングな短期滞在型住宅プロジェクトに着手した。
半世紀前の「未来の東京の形」を、現代にそのまま残す中銀カプセルタワー。
日本有数の繁華街として老舗から新店舗までさまざまな高級店が立ち並ぶ東京・銀座。その一角、ちょうど首都高速道路を挟んで汐留新都心と対峙する場所に、レゴブロックのような不思議な形をした建物がある。いまからおよそ半世紀前の1972年に完成した集合住宅「中銀カプセルタワービル」だ。
日本の茶室に着想を得ながら、カプセル内からに周囲の景色を堪能できるように配した大きな円窓からは、周辺に高層ビルが建ち並ぶ以前は富士山を眺めることもできたという。各居室はわずか10㎡と狭小ながらも、都心で働くビジネスマンがスマートに過ごせるように、インテリアにもこだわり抜いた。ベッド、ユニットバスを完備したほか、デスクは収納式にしてクローゼットと一体に。また、エアコン、テレビ、ラジオ、電話、オープンリール式テープレコーダーといった当時の最新型設備を整えた。
さらに1972年当時として、かなり大胆かつ画期的なプランで黒川はデザインを展開していく。滋賀県の工場で製造したカプセルをトラック乗せて東京に移動させるため、2.5×2.5×4mというユニット寸法は、法規上トラックに載せて運搬できる最大サイズから算出したもの。運んだカプセルは、クレーンで吊り上げてシャフトに連結している。黒川は当初、このタワーから切り離されたカプセルが自由に動き回り、再びほかのカプセルと合体して建築を成すことを想定していたという。しかしながら、実際には予想を超えるスピードで急速に発展しつづける都市の状況に追いつくことができず、残念ながら現在に至るまで一度もユニットの追加や変更は行われていない。時間の経過とともに、老朽化した中銀カプセルタワービルには、何度となく取り壊し計画が持ち上がったが、黒川をはじめ、希少な建築遺産を守りたいというサポーターや住人の尽力により現在に至るまで解体を免れ、当初の姿をそのままに残している。一時代を象徴する英知に満ちたこの建築が、現代の力で本来のポテンシャルを発揮するときが来るだろうか。期待を込めて見守っていきたい。
Text: Hisashi Ikai
Translated by: Hisashi Ikai
Images: Daisuke Shima (ad hoc inc.)